茶の湯の普及を物語る茶臼
現在の東彼杵町を含む一帯で、製茶や喫茶がいつの時代から行われはじめたのかは記録もなく定かではありません。
町内で発見された茶に関するもっとも古い遺物として、中世の大安全寺跡、報恩寺ちょいのどう跡などから、茶の湯に欠かせない道具のひとつであった茶臼が出土しています。当時の茶臼は、ほかの石臼と違い高度な美をともなう贅沢な芸術品でした。この地に芸道の域まで高められた茶の湯の普及があったことを物語っています。

茶臼(上臼は大安全寺跡、下臼は報恩時ちょいのどう跡から出土)
釜炒り茶の流れをくむ蒸製玉緑茶
茶炒り茶の製造については、嬉野町史によると、「永享12年(1440)唐人の船松浦都平戸に来たり、嬉野村皿屋谷に於て陶器を製造し、且つ茶種を栽培し自家として飲用した。」また、明の正徳年間(1506~1521)紅令民と称する中国人が嬉野町不動山に来て、持参した南京釜(唐釜)による炒り葉製法を伝えたとされています。この製造法は、従来の製造法より茶の製品としてかちがあり、「嬉野式釜炒り茶」と呼ばれ、肥前一円で広く普及。長崎県における釜炒り茶の源流と考えられています。現在の「蒸製玉緑茶」のそのぎ茶も、この「嬉野式釜炒り茶」の流れをくむ茶種です。
郷村記にみる茶業の発達
江戸時代になると、茶の生産量が増加。当時の様子がうかがえる記述が郷村記などに残されています。
千綿村『郷村記』には、「寛文九巳酉年(1669)十月八日 当町去年火災ニ付茶口錢十分ヲ免除二三年ノ間三分口銭ニ付 其以後五分口銭差指出早様相極ル」と記されています。
また、彼杵村『郷村記』の追記によれば、「元禄4年(1691)彼杵の名主川尻藤太夫は大村藩主に随従し、江戸勤務の帰路奈良に一泊滞在した折、時間を利用して宇治に行き、茶の種子五合あまりを持ち帰った」そうです。農業技術が飛躍的な向上をみた元禄年間には、農書、茶書、本草書などが著され、その中に茶業技術の発達の記載もみられることから、茶の生産のため、良質の種子が求められていたことが推測されます。
出島の三学者とそのぎ茶
寛永18年(1641)、オランダ商館が平戸から長崎の出島に移転。以降218年間に渡り、出島はヨーロッパに開かれた唯一の窓口となりました。
オランダ商館には商館員の健康管理をする商館医師がいて、安政5年(1858)に商館が廃止されるまでに約150人が赴任しています。そのなかでのちに出島の三学者と称される優れた医師が、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトです。それぞれオランダ商館長の江戸参府の際に随行し彼杵宿を訪れており、当時の茶に関する記述も残しています。

ライデン国立民族学博物館所蔵
近代日本での緑茶輸出の先駆け

製茶工場「百年前の日本」より
伸びゆく茶業
長崎県では当時、東彼杵を中心に北高来の二都が最も生産量が多く、西彼杵、南高来、北松浦の三都がこれに続きました。明治維新後、茶の貿易はますます盛んになり、製茶輸出の増大とともに、茶園の面積、製茶の生産も著しく増加しました。
明治28年(1895)頃から、里郷の田島福次郎は、茶園とみかん園それぞれ10haの目標を立て、大正の初めには模範的な田島農園をつくり、さらに、大正14年(1925)年には機械製茶工場をつくりました。
製茶の機械化がすすむ
全国的に輸出農作物としての茶生産が促進され、生葉の収量も増加したものの、すべてが手摘み、手炒り、手揉の製造が行われており、特に、手揉の製造は重労働で、生産能率も悪く荒茶加工が茶経営の重圧となっていました。
明治30年(1897)高林謙三による製茶機械が発明され、時を同じくして内田三平により茶摘み鋏が考案実用化。茶業の機械化はさらに進み、生産費の低減が図られました。
東彼杵の茶業も大正末期には、従来の手炒り製茶の生産方式から機械化が進み、製茶工場が設置されるようになりました。しかし、当時の製茶工場は、手炒りと一部機械を組み合わせた半機械製茶工場が多く、品質低下などを懸念し、機械化にためらう生産者もいましたが、改良などにより製茶機械の導入が進み、その技術も次第に向上しました。

昭和10年 彼杵製茶輸出組合(法音寺郷の製茶工場前)
ロシア(旧ソ連)への輸出
明治時代日本の輸出茶の大部分はアメリカへ向かっていましたが、大正時代には衰退。ロシアやモロッコなどへ新しい販路は開拓されはじめました。そのような中、彼杵村(現・東彼杵町)の茶は品質が認められロシアへの輸出の対象に加えられることになりました。昭和4年(1929)より輸出を開始したところ好評を得、この年には18,975ポンド(8,606㎏)、翌年には24,378ポンド(11,057㎏)が輸出されました。
その後、彼杵村と千綿村の茶業者で組織された露国茶輸出組合は、昭和8年(1933)年には三菱商事を通じて約9.4tを輸出するまでになりました。
赤木原の開拓
昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位式を記念した「御大典記念救農土木事業」が、全国的な規模をもって実施されました。同年、野田卯太郎は、「御大典記念」に原野が広がる赤木原で開墾を開始。昭和6年(1931)に10aの茶園が竣工しました。村民は野田氏のために「御大典記念茶園」の記念碑を建て、赤木の茶園発展の一歩をしるしています。
昭和9年(1934)、中島栄村長は、赤木原の開拓に情熱を燃やし、赤木原耕地整理組合を結成。村民一体となって開墾し、ついに約110haの畑となり茶が植えられ、見事な集団茶園が完成しました。これにより生産意欲は一段と高まり、栽培、製造技術も向上し、茶の生産が促進されました。

昭和8年 鎌と鍬で原野の赤木原を開拓
東彼杵町の特産品そのぎ茶
戦争で中断していた日本茶の輸出が再開。市場は好況でしたが、昭和29年(1954)の輸出量をピークに、中国や台湾産茶等の進出で急速な減少傾向をたどりました。しかし、昭和30年代後半、国内の経済は高度成長をとげ、それに伴い茶の消費も増加、価格も上昇したため、輸出不振で不況傾向にあった茶業は、またして増産意欲が各地で高まりました。
昭和42年(1967)東彼杵町の松尾関市町長は長崎県が推進する一村一品創生事業の流れのなかで茶業振興に積極的に取り組みました。これまで本町で生産される茶の大部分が「嬉野茶」の銘柄で販売されていたものを「そのぎ茶」として流通させようというものでした。
「そのぎ茶振興協議会」の発足
昭和53年(1978)、県営農用地開発事業などによって茶園の新植や改植も進みました。その後、良質茶生産のための土づくりを目的とした堆肥舎の建設、茶の安定生産のための防霜施設整備、また担い手の規模拡大を目的とした、省力化防除施設、さらには、環境保全型農業をめざす茶園を推進など、良質茶の生産地として基盤づくりに努めてきました。
昭和62年(1987)、当時の池田優町長は、東彼杵町の特産品及び茶業振興策として茶業関係者に呼びかけそのぎ茶の銘柄確立と、お茶の消費拡大のために、東彼杵町、茶生産者、農業協同組合、茶商が一体となった「そのぎ茶振興協議会」を設立。平成4年(1992)、そのぎ茶は、九州茶業品評会において農林水産大臣賞をはじめ上位を独占。その以降も、数々の産地賞を受賞し、優良茶産地としての知名度を高めながら現在に至っています。
